八尾市 藤井寺市 柏原市 小倉美穂ピアノ・リトミック教室
講師 小倉美穂
体育教師を目指していた高校生時代
高校生時代の私は子どもの頃から習っていた剣道を活かし、体育の教師を目指していました。
ところがある日突然、体のバランスを取れなくなり、まっすぐに立つことができなくなってしまいました。自律神経失調症が原因とされる症状でした。
検査入院し、強制的に身体を休め、カウンセリングを受けている間に回復しましたが、突然の変調に自分自身が不安になり、親の助言もあって進路を変更することにしました。
方向転換
そこで選んだのが音楽への道でした。
なぜ体育から音楽に?と思われるかも知れませんが、3歳から始めたピアノは、練習嫌いで決してピアノが上手とは言えないながらも、私という人間の一部分になっていて、これなら頑張れる!と思ったものがピアノだったからです。
しかしピアノの先生からは「この時期からの音大受験はキミには相当難しい」と認めてもらえず、「3ヶ月間の間に先生が示すレベルにまで到達できるなら」という難題をどうにかクリアして私の音大受験生活が始まりました。今思えば先生には相当なご負担だったはずで、私なら到底引き受けないような不出来な生徒でした。
音大受験
それからは目標に向かって、ひたすら受験勉強に励みました。
初めて習うソルフェージュ、音楽理論や声楽のレッスンにも通いました。
学校のある日は帰宅後毎日6時間以上の練習と受験勉強でした。高校では受験に不必要な科目の授業を受験科目の勉強に充てていました。もちろん授業担当の先生に許可をいただきましたし、その科目で欠点を取らない程度には勉強も頑張りました。その生活は高校3年生の2月まで続きました。
音大時代
頑張って合格した音大でしたが、その時の私は担当の先生から驚かれるほど基礎ができていませんでした。
椅子の高さから手の形まで、まるで初心者に指導するように、ありとあらゆるご指導をいただきました。今の私があるのはその先生のおかげだと今でも感謝しています。
そんな状態だったのでサークル活動やバイトに明け暮れるというような学生生活とは程遠い学校と家を往復するだけの音大時代でした。
ピアノ教室を始める
卒業後は、お店での演奏やママさんコーラスの伴奏などをいただき、仕事と共に生徒数も増え始め、仕事にやりがいを感じながら経済的にも自由な日々を過ごしていました。
50名を超える生徒さんの中からはコンクールで金賞・銀賞など上位に入賞する生徒さんもいて、充実した毎日でした。
また、リトミックの勉強を始めてからは一段と指導の仕事が楽しくなり、ピアノの指導法も随分変わりました。生徒さんの「できない」を「わかった」「できた」に変える喜びが生徒さんの上達ぶりにも表れてきました。
できの悪い生徒だった私だからこそ、生徒さんの困りごとがリアルに理解できるのかも知れないと思います。またそのプラス思考の発想は今でもレッスンの中で生徒さんと関わる中で生徒さん達のモチベーションを上げる役割も果たしているようです。
結婚~出産、夫の闘病を支える家庭人として
結婚・出産を経て、妻や母としての役割が増えました。
出産後は生徒数を大幅に減らし、育児中心の生活に変わりました。
しばらくしてからは夫の病気へのサポートが私の重要な仕事となりました。
病状は日に日に重くなり、しまいにはちょっとした外出や数日間の旅行にも大きな医療用器具を持参することが必要となりました。
何かと制限のある生活でしたが、それが「家族のための当たり前」と思いながら暮らす毎日でした。
しかし心の中では大好きな音楽の仕事を減らし、スキルアップの場に参加することもできなくなった私は、残り少ない生徒さんとのレッスンさえ近い将来なくなってしまうのかも知れないと不安を感じていました。
またいつか再起できる時が来るなどと考える余裕もなく、新しいお申し込みをお断りすることにホッとしてしまうくらい余裕のない精神状態でした。
忘れられない日
そんな私達に訪れた突然の出来事。
夫が二度の手術の甲斐もなく亡くなってしまいました。病名は脳幹出血です。
学校のお休みを利用して初めての沖縄旅行を間近に控え、楽しみにしていた子ども達が小学校3年生の冬のことでした。
幾度の困難を乗り越えて
夫が亡くなった後、天地がひっくり返るほど驚くことがいくつか起こり、その解決のために人生で初めて弁護士を依頼する経験もしました。
それと同時に、父親を亡くしたショックで子ども達に夜泣き・頻尿などの症状が現れ、そのケアにも気を抜けず、私が生きてきた中でもっとも張り詰めた時期でした。
それぞれの道
それから月日は流れ、幼かった子ども達もそれぞれの道を進み始めました。
と同時に、私にも大好きな音楽の仕事が戻ってきました。廃業寸前だった教室は単独で発表会を開催できるほどたくさんの生徒さんに通っていただける教室へと成長させていただきました。
これからの夢
私は子育てを経験しながら、偏差値教育の弊害を感じてきました。
学校教育を否定するつもりはありませんが、教科書の内容に疑問を感じ、それを暗記するだけとも言える学校の授業に物足りなさを感じていました。
個人によって学びの速さは違うし、興味を持つ内容も違うのが当たり前。だからこそ学校教育だけでは補えない、音楽が特化できるための場所を作りたいと思い、教室を再開することにしました。リトミックやピアノが楽しくて、音楽が好きな人達がそれを自分の特技だと自信を持てる人間に育てるお手伝いがしたいのです。
今、私は、音楽を仕事とすることで日々とても豊かに暮らしています。自分に何かしらの「好きなこと」があるということは、そこから感性を磨き、主体的に生きるという力にもなっているのではないかと思っています。
このことに心から感謝し、私の経験やスキルがお役に立てるよう自己研鑽を重ねつつ日々レッスンをしています。辺鄙な場所にある小さな教室ですが、ここに集う仲間の輪が大きくなることを楽しみにこれからも頑張り続けます。